2008年04月29日

デザイン[モダニズム]

◆デザインの杜◆モダニズム



モダニズム (modernism)#近代主義のこと。

・20世紀初頭に各分野で起こった実験的な芸術運動。モダンアートともいう(本項で詳述)。

・19世紀の末、カトリック教会で起こった運動で、現代にふさわしい信仰を主張したが、異端とされた。----

モダニズムは20世紀以降に起こった芸術運動を指す。従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求した。



文学


文学では、ジェイムズ・ジョイス|ジェームズ・ジョイス、T・S・エリオット、横光利一らの実験的な作品を指す(モダニズム文学)。



建築


建築においては、過去の装飾を用いた歴史主義建築|様式建築を否定するウィーン分離派、デ・ステイル|デ・スティル、バウハウスなどの動向から、やがて合理的、機能的な建築を理想と考える近代建築運動が起こった。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライトが世界近代建築の3巨匠とされ、日本では前川國男やその弟子である丹下健三らが代表的な建築家として挙げられる(モダニズム建築)。



絵画


伝統的・保守的な画壇に反抗した未来派、キュビズム、シュールリアリズム、ポップアート等の様々な運動が起こった。20世紀美術を参照。絵画におけるモダニズムの始まりについては諸説ある。もっとも早くには1863年フランスの落選者展(芸術アカデミーのサロン展に落選した後の印象派の画家などが出展)をアバンギャルド(前衛芸術)の出発点とする。しかし、モダニズムを大きく支えたのは1929年に開館したニューヨーク近代美術館 (MoMA) と、1939年に論文『アヴァンギャルドとキッチュ』を発表したアメリカ合衆国|米国の美術評論家クレメント・グリーンバーグであった。これらの運動自体もやがて閉塞し、1970年代後半頃からモダニズムの終焉が叫ばれた(ポストモダン参照)。



関連項目



  • 美術


  • 建築・建築史


  • 近代美術と現代美術


  • 前衛美術


  • 20世紀美術


  • 近代化










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    2008年04月28日

    デザイン[ジャギー]

    ◆デザインの杜◆ジャギー



    ジャギー は、ビットマップ画像(ラスターイメージ)やビットマップフォントなどの輪郭に見られる、階段状のギザギザのこと。折り返し雑音の一種。ビットマップ画像の解像度に影響し、解像度が低いほどギザギザが大きく目立つようになる。ジャギーはビットマップ画像の持つ特徴であり、ジャギーが存在しないビットマップ画像はない。ジャギーを軽減させる方法は、画像をウェブサイトや印刷などの用途に合わせて適切な解像度を設定する、アンチエイリアスを設定するなどがある。しかし、アンチエイリアス処理を施した画像は、輪郭がぼやけるため、必ずしも綺麗な画像になるとは限らない。また、低解像度画像のジャギーはドット絵などに見られる独特の雰囲気が出る場合がある。なお、図形情報であるベクターイメーァ
    8$K$Oジャギーは存在しない。ただし、それを出力する際の出力先がドットを基本とするメディア(一般的に市販されているディスプレイやプリンタなど)の場合、出力時に解像度に対応したラスタライズという工程によりビットマップ化されるため、「出力される画像」にはジャギーが存在する場合がある。



    関連項目



  • ラスタ形式


  • ピクセル


  • 解像度Category:画像処理|しやきー








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    2008年04月27日

    デザイン[アドバンスドフォトシステ%`]

    ◆デザインの杜◆アドバンスドフォトシステム





    アドバンスドフォトシステム (Advanced Photo System: APS) は、富士フイルム、コダック|イーストマンコダック、キヤノン、ミノルタ、ニコンによって共同で開発された「世界標準規格の新しい写真システム」。1996年4月に販売が開始された。APSは写真フィルムの名称ではなく、新規格の専用フィルム(写真フィルム#IX240|IX240)を使用した「進化した写真システム」のことを指す。規格名の "IX" とは "Information Exchange" の略で、デジタルカメラのExifヘッダのように、撮影時の設定、日付・時間、プリントサイズ・枚数指定、コメントなどをフイルムにコーティングされた磁気面に記録し、プリント時に利用できるためこの名がある。240はフィルム幅の24mmから。



    概要


    画面の露光面積は16.7 x 30.2mmで縦横比が従来の各種フィルムと比べて横長(9:16)なのが特徴。その基本サイズの左右または上下をプリント時にトリミングすることで、35mm版の通常サイズ(2:3)とパノラマサイズ(1:3)に対応するプリントが可能である。これらのサイズ設定は基本的にカメラ側で設定する(一部低価格機にはCサイズ専用もある)。ただし、ラボへのプリント注文時に指定して変更は可能である。また、かつて発売されていたAPS用フォトプレイヤーでは各種設定を変更できるものもあった。


  • Hサイズ(ハイビジョン/9:16)

    : 基本となる画面サイズで、撮影設定に関わらずフィルム面にはこのサイズで写る。プリント時には従来のL版と縦は同じで横幅が広くなる。


  • Cサイズ(クラシック/2:3)

    : Hサイズの左右をトリミングしたサイズ。従来の35mmフィルムと同じ画面比率で、プリントも同じL版(またはKing版)のサイズ。


  • Pサイズ(パノラマ/1:3)

    : Hサイズの上下をトリミングしたサイズ。従来の35mmパノラマ版と同じ。

    また、画面サイズが小さいために35mm版と同じレンズでも画角が狭くなる。従って、35mm版と比較する場合はレンズの表記に比率を掛けて換算する必要がある。対角画面で換算すると、Hサイズ・Pサイズ=1.25倍、Cサイズ=1.4倍(ハーフ版と同等)となり、例えばAPSの24mmレンズの35mm版相当の画角は24mm x 1.25=30mm(Hサイズ時)となる。ただ、Hサイズの場合は画面比率が横長なために、35mm版と同等の画角でもよりワイドさが強調されて見える。現像後もフィルムはカートリッジの中に入れたまま返却され、焼き増しの注文は添付されるインデックスプリントでコマを確認して行う。しかし、カートリッジに入ったまま返却されるので保管に嵩張る、カートリッジとインデックスプリントを関連付けた保管が煩雑でインデックスプリントをなくしやすい、という規格立案時点では恐らく想定されていなかったと思われる不満も聞かれる。その後、35mmフィルムを現像した際もインデックスプリントが添付されるようになり、インデックスプリントはAPSならではの特長ではなくなって\xA1
    $$$k!#MxE@$H$7$F$O!"=>Mh$N35mmフィルムに比べ、フィルムサイズ=カートリッジが小型であるためにカメラ自体も小型化できる点がある。

    他にも、


  • 密閉カートリッジなので、フィルムに触れることなく装填でき失敗が少ない。


  • 撮影済みのフィルムは装填できないので、二重露光などの失敗がない。


  • 撮影途中でフィルム交換ができる(MRC=ミッド・ロール・チェンジ;カメラ側での対応が必要)。

    などのこれまでのカメラでは難しいことが簡単になったことがあげられる。フィルムが小型であることを強調するためか、市場に出た製品のほとんどはコンパクトカメラであった。キヤノン、ニコン、ミノルタからはレンズ交換可能な一眼レフカメラも発売されたが、写真フィルム#135|35mmフィルムと比べて撮影面積が小さいことから、画質が劣ること、交換レンズの互換性の問題からあまり普及しなかった。また、フォトプレイヤーという、現像済みのカートリッジを装着してそれをテレビへ映し出す装置も発売されていた。かつてのスライド投影機のAPS版とも言えるが、BGMをつけたりカット間効果をつけながらの自動スライドショーを行ったりと、スライド投影機に比して高機能であった。またフィルムのIX情報を修正したりする機能もあった。こういった機能は後のデジタルカメラの閲覧ソフトに継承され発展していった。


    [ フィルム状態の表示 ]
    フィルムカートリッジの底面にはフィルムの状態を示す仕組みが設けられている。4段階のフィルム状態が白いアイコンで順に鼻
    =<($5$l$k!#

    ・ 丸:新品未使用であることを示す。

    ・ 半円:総撮影枚数の途中まで撮影済み。ミッド・ロール・チェンジ(撮影途中でのフィルム交換機能)でカメラから取り出した状態。カメラへ再装填したり現像に出すことが可能な状態を示す。

    ・ バツ:総撮影枚数を全て撮影したことを示す。カメラへは物理的に装填できない(二重露光防止機能)。早目に現像に出すことが望ましい。

    ・ 四角:現像済みを示す。



    推移と現況


    APSはこれまでのカメラシステム(フィルム、カメラ、DPE)を刷新し、関連市場の浮揚を狙ったものであったが、写真フィルム#135|35mmフィルムの優位性、同時期に普及しだしたデジタルカメラと、写真画質カラープリンタの急激な性能向上により、あまり普及しなかった。2002年のフィルム販売においてIX240フィルムのシェアは、ロールフィルムが出荷本数の約12%、レンズ付きフィルムが同約29%である。2002年時点で既にコダック、ニコン、コニカミノルタらがAPSカメラの製造・販売から撤退し、その後も他のメーカーの撤退が相次ぎ、2007年現在では日本国内では発売されている機種はない。

    また、フィルムについては主要3社のうちコニカミノルタ(当初コニカ)は現在撤退、富士写真フイルムがネガカラーのNexia(ISO400)を、コダックが同じくネガカラーのAdvantix(ISO200/400)を生産しているのみとなる。かつてはISO100の高画質タイプやISO800の高感度タイプ、またリバーサルも商品化されてはいたものの、市場規模の縮小に伴い現在は生産されていない。ただし、富士写真フイルムが生産しているレンズ付きフィルム「写ルンですMini」の一部ではISO1000や1600等の高感度タイプを内蔵する製品もまだ存在している。



    過去の主要カメラ


    メーカー名は略称


    [ 一眼レフカメラ ]



  • EOS-IXシリーズ(キヤノン)

    : 同社の35mm一眼レフ・EOSシリーズと共通のキヤノンEFレンズマウント|EFマウントを採用しており、その名称からもEOSシリーズのAPS版という位置づけであった。初号機のIXEは本体にステンレス素材を用いており、IXYにも通じるBox&Circleを基調とした近未来的でメカニカルなデザイン。後に追加された普及機のIX50はEOS-Kissに似たカジュアルかつオーソドックスなデザイン。なお、キヤノンレンズの外装は黒色が基調であるが、このカメラに合わせカメラ本体と同色のレンズも発売されていた。


  • Proneaシリーズ(ニコン)

    : 同社の35mm一眼レフ・ニコンの銀塩一眼レフカメラ製品一覧#F|Fシリーズと共通のニコンの銀塩一眼レフカメラ製品一覧#Fマウント|Fマウント(AF-G)を採用しているが、別シリーズ扱いであった。初号機の600iは同社の35mm中級機F70Dベースの本格派。デザインも同時期のFシリーズと統一性のある質実剛健なもの。後に追加された普及機のSは一転「ウーマンズ・ニコン」を標榜し、銀の本体色に紫のアクセントを配した曲面基調のスタイリッシュなデザインとなった。なお、シリーズ専用のIXニッコールレンズも発売されていた。このシリーズは基本的に絞り制御をカメラ側で行うため、同社のAF専用レンズである通称AF-Gと同様、絞りリングがないのが外観上の特徴である。尚、IXレンズはマウント側が独自形状となっており、ここがミラーボックスに干渉するために、通常の35mm用及びデジタル専用のFマウントには装着できない。


  • Vectis-Sシリーズ(旧ミノルタ)

    : APSフォーマットに最適化させたという新規設計のVマウントを採用。そのためレンズもかなり小型化されている。また、本体・レンズ・ストロボを含むシステム全体がJIS保護等級2級(水しぶき程度の防水)の防水性能を持っている。初号機のS-1と後に追加された普及機S-100がある。外見的には共通したデザインで、プリズムの代わりにミラーを用いたリレー光学系ファインダーのために軍艦部がフラットなのが特徴である。ミノルタはこの規格をデジタルとの共用規格にしようとしていた節があり、実際に製品(Dimage RD3000)も発売されていたが、デジタルカメラが発展途上のうちに肝心のAPS市場のほうが縮小してしまったため、結局はレンズ資産の豊富な35mm版のAマウントになった。


  • Centurionシリーズ(オリンパス)

    : レンズ固定式一眼レフカメラ。同社が35mm版で発売していたLシリーズのAPS版。初号機のCenturionと改良機のCenturion-Sがある。


  • Epion4000シリーズ(富士)

    : レンズ固定式の一眼レフカメラ。Centurionとスペックがほぼ共通しており、オリンパスのOEMか共同開発と思われる。


    [ コンパクトカメラ ]



  • IXYシリーズ(キヤノン)

    : APS発売当初に高品位な仕上げのステンレス素材ボディとBox&Circleと呼ばれた明快なデザインによってヒットし、APS普及の牽引車となった。その影響は大きく、後にデザインコンセプトがデジタルカメラにも引き継がれてヒットしたほどである。基本モデルはオリジナルモデルから続く3桁系と言われるシリーズで、概ね百位がグレード、十位がズーム倍率を示す。300系がステンレス、200系が普及タイプのプラスチック製。2桁系は機能を絞った廉価機。iは3桁系の後継機で、シリーズ最後のフラグシップモデル。他に高機能機のGがある。なお、単焦点機のキヤノン IXY 310|310はF2.8というこのクラスでは稀な大径レンズを持っている。


  • Nuvisシリーズ(ニコン)

    : 2/3桁系は普及機。他に一眼レフFシリーズのデザインを模した黒地に赤アクセントのVや、カプセルボディの高品位タイプSシリーズがある(S2000は2倍ズームと4色プラボディの普及機)。


  • Vectisシリーズ(旧ミノルタ)

    : 2桁系は普及機、3桁系はやや上位でメタル製もある。他にカプセルボディの高品位タイプとなる4桁系(2000/3000)がある。また、防水タイプの通称"Angelシリーズ"と呼ばれるGX系(1〜4)もあり、各機で防水機能とカラーが異なる個性的な(ある意味トイカメラ的な)ユニークなデザインが特徴。


  • Efinaシリーズ(ペンタックス)

    : オリジナルモデルはAPSコンパクトとしては珍しくバルブ撮影まで可能な多機能機だったが、後にフルオートの高品位タイプ、Tシリーズを追加。


  • NewPic/i-Zoomシリーズ(オリンパス)

    : 普及機となるNewPicシリーズと、同社の35mm版生活防水カメラμ (カメラ)|μ(ミュー)のAPS版的位置付けのi-Zoom60/75(2桁系)、高品位タイプのi-Zoom2000/3000(4桁系)がある。


  • Epion/Nexiaシリーズ(富士)

    : 普及機のEpion(2桁/3桁系)、高品位機/高機能機のEpion(4桁系)がある。なお、Epion4桁系のうち特にカプセルボディの1000系は同社の35mm版高品位コンパクトカメラに倣ってTiaraのサブネームが付されている。1000はAPSでは珍しいチタンボディ、1010はプラスチック製の普及機。低価格の2桁系には児童向けのキャラクター商品としてサンリオキャラクター(ハローキティ、マイメロディ)などのイラストをプリントされたものもあった。のちに同社のAPSフィルムと同ブランド名を付されたNexiaシリーズに交代し、カプセルボディのTiaraも2倍ズームの2000へと進化した。特筆すべきはペンダント型というユニークな形状と低価格でヒットしたQ1シリーズで、当初単焦点機のみだったが後に2倍ズーム機や多彩なカラー/デザインバリエーションが発売された。なお、NexiaQ1は日本国内では最期まで残っていたモデルである。


  • Revio/SuperBigMiniシリーズ(コニカ)

    : 参入当初は35mm版のヒット商品BigMiniに倣ったSuperBigMiniシリーズを発売していたが、後にその小型化路線を更に追求したRevioシリーズを展開した。オリジナルモデルから分岐した低価格でカジュアルユースのC系(CL,CZ)と高品位なZ系(II,Z2,Z3)に大別されるが、いずれもセルフポートレイト用の折り畳みミラーが標準添付され、それを軍艦部に取り付けられるのが特徴である(初期ライカの折り畳みファインダに似る)。


  • Advantixシリーズ(コダック)

    : 参入当初はごくオーソドックスな機種に終始していたが、後にレンズカバーがヒンジで上へ開いてそのままストロボになるというユニークなシリーズを発売した。中でもPreviewは、ファインダにCCDを組み込んで撮影直後の画像を背面の液晶モニタで確認できるユニークな機種である。


  • Ultimaシリーズ/Samurai4000iX(京セラ)

    : 当初は同社のハーフ版一眼レフ機"Samurai"を模したSamurai4000iXを発売(一眼レフではなく通常のビューファインダー方式)。APSコンパクト機としては最大級となる4倍の高倍率ズームレンズを持っていた。のちに通常のコンパクトタイプのUltimaシリーズになった。上級にContaxが控えていたためか、こちらはオーソドックスな普及機に終始したようである。


  • C11(ライカ)

    : ライカ唯一のAPSカメラ。高品位な造りではあるが内容はごく普通の3倍ズームコンパクトカメラ。レンズは無銘。


  • MacroMax-FR2200(ゴコー)

    : 接写に強い(最短25cm)のが特徴。同社35mm版MacroMaxシリーズのAPS版。


    [ 高級コンパクトカメラ ]



  • Tix(コンタックス;京セラ)

    : 同社の35mm版高級コンパクト・CONTAX-TシリーズのAPS版(T+ix)。シリーズ共通の高品位なチタン素材ボディとツァイスレンズ(Sonnar T* 28mm F2.8)を持つ。デザインやシャッター機構は後年の35mm高級コンパクト・T3に受け継がれている。最高1/1000秒の高速シャッター、露出補正機能に加え、絞り優先AE撮影も可能な、APSコンパクトカメラとしては稀有な機種。色は素材色のチタンシルバーと黒。定価12万円。


    [ 防水タイプ(ダイビング用途) ]



  • IXY-D5(キヤノン)

    : 水深5m防水機能。


  • Vectis-WetherMatic(旧ミノルタ)

    : 水深10m防水機能と耐衝撃シェルを持つヘビィデューティ仕様。このタイプとしては珍しい1.7倍ズーム。



    他フォーマットへの影響と関連



  • 現在の35mmフィルムの同時プリント時に付いてくるインデックスプリントは元来APSの規格であった。後に35mmへも援用された。


  • フィルムサイズの基本となるHサイズは、ハイビジョンテレビの画面比率から設定された。デジタルカメラでも同様のトリミングによってHサイズとCサイズなどを設定できる機種が現れている(松下電器Lumix-LXシリーズ)。


  • フィルムサイズの画面比率が35mm版と同等のCサイズは、かつてのハーフ版とほぼ同サイズ。また、これとほぼ同等の面積を持つデジタルカメラ(特に一眼レフカメラ)の受光素子をAPS-Cサイズと呼ぶのも、これに由来する。また、珍しいところでキヤノンの最高級デジタル一眼レフの高速連写タイプ、EOS-1DシリーズはAPS-Hサイズとほぼ同サイズの受光素子を採用している。








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    2008年04月26日

    デザイン[ロマネスク]

    ◆デザインの杜◆ロマネスク



    ロマネスク(仏:Romanesque)は中世西ヨーロッパの建築・美術のうち、中世後期のゴシック以前のものを区別して用いる。ロマネスク建築、ロマネスク美術、ロマネスク様式などという。



    ロマネスクという語


    ロマネスクとはローマ風のという意味で、19世紀以降美術史の用語として使われるようになった。それ以前はロマネスクもゴシックも中世の美術という大きなまとまりとして捉えられていた。ロマネスク建築ではローマ時代の建築に多く使われた半円アーチを開口部の構造に使うことが特徴とされる。



    建築


    ロマネスク建築はフランスなどを中心に11世紀以降の中世ヨーロッパで発達したもので、主に教会堂や修道院建築である。10世紀にはカロリング朝が衰退、滅亡し、社会的に混乱期であったが、紀元1000年を機に教会堂の復興が進められ、ロマネスク建築の教会堂が多く建設された。絵画・彫刻は主に建築を装飾するために作られた。



    絵画


    ロマネスク美術は素朴な信仰心に満ちた美術様式である。当時の絵画は文字の読めない人々にキリスト教を教える役割を果たした。東ローマの影響を受けた教会堂の壁画のほか、写本装飾に優れたものが見られる。



    彫刻


    教会堂の壁面や柱に彫刻がほどこされた。建築から独立した彫刻作品が作られることはまだなかった。



    関連項目
    * 美術


  • 美術史






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    2008年04月25日

    デザイン[図形]

    ◆デザインの杜◆図形



    図形(ずけい、shape)は、一定の決まりによって定められる様々な形状のことであり、様々な幾何学における基本的な対象である。ものの視覚|視覚認識によって得られる直観的な「かたち」を、まったく感覚によらず明確な定義と公理のみを用いて、演繹的に研究する論理的な学問としての幾何学の一つの典型は、エウクレイデス|ユークリッドのユークリッド原論|原論に見られる。ユークリッド幾何学においては、図形は定規とコンパスによる作図|定木とコンパスによって作図され、点、直線と円 (数学)|円、また平面や球、あるいはそれらの部分から構成される。1872年、フェリックス・クライン|クラインによって提出されたエルランゲン目録は、それまでの古典的なユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学、射影幾何学などの種々の幾何学に対して、変換という視点を通して統一的に記述することを目的とした。クラインのこの立場からは、図形は運動あるいは変換 (数学)|変換と呼ばれる操作に関して不変であるような性質によって記述される点集合のことであると言うことができる。同時期にベルンハルト・リーマン|リーマンは、カール・フリードリヒ・ガウス|ガウスによって詳しく研究されていた曲面における曲率などの計量を基礎に、曲面をそれが存在する空間に拠らない一つの幾何学的対象として扱うことに成功し、リーマン幾何学あるいはリーマン多様体の概念の基礎を築いた。この立場において図形は、空間内の点集合という概念ではなく(一般には曲がったり重なったりした)空間そのものを指すと理解できる。



    関連項目
    *幾何学


  • 図形の一覧


  • ベクターイメージ








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    2008年04月24日

    デザイン[プロダクトデザイナー]

    ◆デザインの杜◆プロダクトデザイナー



    プロダクトデザイナー(英:Product-designer)とは、プロダクトデザインを行う人のこと。プロダクトデザイナーには、いわゆる工業製品(具体的には自動車、飛行機、家電製品、業務用機器、医療機器など)のデザインを行うインダストリアルデザイナーだけでなく、家具や食器、パッケージなどのデザイナーも含まれ、場合によってはデザイン的な方法論を導入する工芸作家までを包括する場合がある。プロダクトデザイナーは、関与するプロジェクトによってはグラフィックデザイナーやファッションデザイナーと同様の作業を行うこともしばしばであり、実際の仕事は多岐にわたる。ファインアートに対し、デザインが、ある目的を果たすために生産される道具(=製品)に対して向けられる活動であるということをメタレベルにおいて共有した場合、プロダクトデザイナーという言葉が示す意味内容は、本質的にデザイナーとほぼ同義であると言える。




    [日本]
    *秋田道夫


  • 伊藤節


  • 伊藤志信


  • 稲場満


  • 岩崎一郎


  • 川崎和男


  • 菅悟史


  • 喜多俊之


  • 國本桂史


  • 黒川雅之


  • 佐藤まどか


  • 深澤直人


  • 中村史郎


  • 柳宗理


  • 三原昌平


    [海外]



  • ヤコブ・イェンセン


  • ハートムート・エスリンガー


  • フィリップ・スタルク



    関連



  • デザイナー


  • インダストリアルデザイナー






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    2008年04月23日

    デザイン[彫刻家]

    ◆デザインの杜◆彫刻家



    彫刻家(ちょうこくか)とは、芸術家、美術家のなかでも立体作品、造形物としての彫刻を作る人のことを称する。造形手段として、石や木、金属等の素材を彫り込み、加工させ、立体物にしたり、模様を刻むなどして、素材に変化をくわえ芸術作品へと変貌させる。現代では独自の形態を持つオブジェなどを一定の空間内に配置し、空間的な美しさを表す作品が主流となっている。一部の作家は彫刻家とは名乗らず「空間造形作家」、「立体アーティスト」と自称する人もいる。一般的に単体のモチーフに媒体が木材、石材、金属を彫って作られたものを彫刻作品とするが、プラスチック素材、樹脂などを用いる作品も多く、特定の素材に偏る見方はない。日本においては、仏像彫刻を生業とする人たちを、仏師と呼びならわしている。





    世界の彫刻家一覧



  • ドナテルロ


  • ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ


  • オーギュスト・ロダン


  • フランソワ・ポンポン


  • アントワーヌ・ブールデル


  • アリスティド・マイヨール


  • コンスタンティン・ブランクーシ


  • ジャン・アルプ(ハンス・アルプ)


  • アレクサンダー・アーキペンコ


  • オシップ・ザッキン


  • 黄土水


  • アレクサンダー・カルダー


  • ヘンリー・ムーア


  • マリノ・マリーニ


  • アルベルト・ジャコメッティ


  • ジャコモ・マンズー


  • ジョージ・シーガル


  • ジャン・ティンゲリー


  • アントニー・ゴームリー


  • リン・チャドウィック*ニョマン・スウェタ


  • エミリオ・グレコ


  • アンソニー・カロ


  • バリー・フラナガン


  • ヴェナンツォ・クロチェッティー


  • ペリクレ・ファッツィーニ


  • ジュリアーノ・ヴァンジ



    日本の彫刻家一覧



    [ 明治・大正 ]



  • 朝倉文夫


  • 安藤照


  • 石井鶴三


  • 荻原守衛


  • 北村西望


  • 新海竹太郎


  • 高村光雲


  • 高村光太郎


  • 中原悌二郎


  • 平櫛田中


  • 渡辺長男


    [ 昭和 ]



  • 朝倉響子


  • 飯田善国


  • 伊藤隆道


  • 井上武吉


  • 岡本太郎


  • 木内克


  • 清水九兵衛


  • 佐藤忠良


  • 新谷?紀


  • 澄川喜一


  • 流政之


  • 成田亨


  • 舟越保武


  • 細川宗英


  • 本郷新


  • 三木富雄


  • 最上壽之


  • 柳原義達


  • 淀井敏夫


  • 野村ヒロ


  • 堀内正和


  • 北村西望


  • 岩野勇三


  • 菊池一雄


  • 山崎猛 (彫刻家)|山崎猛


    [ 現代 ]



  • 浅賀正治


  • 雨宮敬子


  • 井上久照


  • 伊藤鈞


  • 植松奎二


  • 遠藤利克


  • 柿崎順一


  • 杭谷一東


  • 草間彌生


  • 黒川晃彦


  • 重岡建治


  • 新宮晋


  • 関根伸夫


  • 斉藤誠治


  • 瀧口政満


  • 棚田康司


  • 戸谷成夫


  • 豊田洋次


  • 内藤礼


  • 奈良美智


  • 舟越桂


  • 星野敦


  • 峯田敏郎


  • 籔内佐斗司


  • 山本正道


  • 菊川晋久


  • 津野充聡


  • 大河原隆則


  • 池田宗弘


  • 一色邦彦


  • 掛井五郎


  • 本郷寛


  • 工藤建


  • 飯澤喜七


  • 矢形勇


  • 石田武至


  • 平山隆也


  • 市村緑郎


  • 井上公雄


  • 日比野知三






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    2008年04月22日

    デザイン[モリサワ]

    ◆デザインの杜◆モリサワ



    モリサワは、写真植字機|手動写植機や電算写植|電算写植機のメーカーであり、近年ではDTP用フォントや、組版ソフトウェア、オンデマンド印刷機などを開発・販売しているメーカー。印刷・出版業界におけるPostScriptフォントの第1位の市場シェアを誇る。



    歴史


    創業者は森澤信夫。石井茂吉と共に「写真植字機研究所(のちの写研)」を設立、エンジニアとして初期の写研機の開発を支えた。のちに森澤は同社を退社(意見の違いが原因と言われる)、1948年、独自に「写真植字機製作株式会社」として創業したのが、現在のモリサワ(1971年に社名変更)である。本社は大阪市浪速区(創業時の本社は大阪市西成区)、代表取締役会長兼社長は森澤嘉昭(創業者の次男)。手動写植機の市場において第2位の位置を占め、時代が電算写植に移ってもその立場をキープしていた。社内で独自の書体を設計し、写研には及ばぬまでも好評を博した。ゴシックMB101のシリーズなどは特に人気が高く、「お上品な写研にはできない野武士の風格」と評するデザイナーもいた。1984年からは、3年に一度の「国際タイプフェイスコンテスト モリサワ賞」を開催するなど、日本の書体設計を牽引する存在である。(現在は休止中)MacintoshによるDTPの波がやってきた\xA1
    $H$-!"モリサワはアドビシステムズ|アドビと提携し、Macintosh用フォントとして自社の書体を販売する道を選んだ。当初これは社内外から懐疑的な声も多く、またフォントのスタンダードの地位を巡っては様々な戦いがあったが、写植機メーカーとしての定評と書体およびフォントプログラムの品質、プリンタメーカーとの提携などの策が奏功し、1990年代を通じて同社の書体は、DTPにおけるデファクトスタンダードとして盤石の基盤を築く。近年ではOpenTypeフォントをリリースし、いわゆる次世代DTPへの布石を打っている。これにより、Microsoft Windows|Windows環境でも同社の人気ある書体が使用できるようになった。また、Windows上で同社の書体を使いたいという需要も多く、ViewフォントというWindows用ATMフォントも販売していた。これはプリンタのCIDフォントを指定する専用のスクリーンフォントであったが、意図的に痢
    X3T@~$N%5%s%W%j%s%0IJ$N:v$H$$$&0U8+$b$"$k!K!"HsPSプリンタで出力すると粗い密度の印字物しか得られなかった。また、MacintoshのPSフォントとの文字セットの違いや欧文数字のグリフの違いなど互換性が高いとは言えなかった。現在はそういった欠点などすべてがOpenTypeフォントで包括できることから、同社ではViewフォントの販売は終了、OpenTypeに移行している。



    PSフォントの変遷


    和文(日本語)PostScript (PS)フォントは、当初OCFフォント|OCF形式のものが販売されていた。これは1バイトの欧文PSフォントを多数積み重ねた構造をしていたため、処理が重いなどの問題があり、のちに構造を簡素化するなどの対処でこれを改善したCID形式のフォントが販売された。しかし同社のCIDフォントは、OCFフォントとPSフォント名が同一だった。そのため新旧のフォントを混在させると様々な問題が生じた。同社としては、ユーザーがインストールしているOCFフォントをすべてCIDフォントに置き換えれば問題ないとして有料アップグレードを推奨していたが、既に安定した出力環境を構築していたユーザーは変更による不安定化(の危惧)と出費を懸念したことなどがあり、買い替えは進まなかった。また、Portable Document Format|PDFへの文字埋め込みや、Adobe Illustrator|Illustratorなどのツール上での文字のアウトライン情報の抽出も不可能という仕様であったため、デザイナーなどから不評の声が上がっていた。(CIDフォントにアウトライン不可の制限ぁ
    r$+$1$k$H!"=PNO$K$b%(%i!<$,=P$d$9$$$H$$$&@b$b$"$k)

    :CIDフォントのアウトラインプロテクトは、技術的な問題ではなく純粋に政治的・商業的な目的であったという。OCFフォントに関しては、当時の技術ではアウトラインプロテクトとコピープロテクトが同一のプログラムで実現されていたため、片方を外すことが他方を解除することと同義であった。専用のソフトウェアも秘密裏に流通したが、CIDフォントへの移行に伴ってそれは姿を消した。そういった問題点を解消するため、モリサワは仕様を一部改訂した「New-CIDフォント」をリリースした。これはフォント名の先頭に''A-CID''と付けることでOCFフォントと区別し共存できるようにしたほか、アウトライン抽出も可能とするなど改善が加えられている。そのため、同社のPostScriptフォントには「OCF」「CID(旧CID)」「New-CID」の3種類が存在する(ただし、illustratorのバージョンによっては各フォントを同時に使用していると区別がつかない場合もある)。また、それぞれの商品を販売する段階で、アウトラインデータのバグ福
    d=$!?F10lJ8;z%3!<%I$K$*$1$k;z7A$NJQ7A!J;zBNJQ99$N$[$+!"%(%l%a%s%H$NHyD4@0$b4^$`!K$r9T$C$F$*$j!"8_49@-$,40A4F10l$H$O8@$$Fq$$B&LL$b$"$k!#



    代表的なフォント



  • PostScript、OpenType製品

       末尾のアルファベットはウェイト(文字の太さ)をあらわす。EL=ExtraLight, L=Light, R=Regular, M=Medium, DB=DemiBold, B=Bold, EB=ExtraBold, H=Heavy, EH=ExtraHeavy, U=Ultra で、順に太くなる。

       また、教科書ICAやリュウミン、新ゴなどについては、このほかにも「学参フォント」と呼ばれるバージョンの製品がある。これは、仮名|カナなどを文部科学省が定めた字形にしたもの。

    リュウミン L/R/M/B/H/U

    中ゴシックBBB

    中丸ゴシックBDR1(写植用)-BBBの丸ゴシック版。日本放送協会|NHKのテロップ(NHK総合ほか以外)で頻出。

    新ゴ EL/L/R/M/DB/B/H/U - めちゃイケのテロップで使用。

    新丸ゴ L/R/M/DB/H/U

    じゅん101/201/34/501 (数字は順にウェイトを表す)

    見出しミンMA31

    見出しゴMB31

    ゴシックMB101 L/R/M/DB/B/H/U

    B太ゴB101

    太丸ゴBD101(写植用)-B101の丸ゴシック版

    教科書ICA L/R/M

    楷書MCBK1

    正楷書CB1

    新正楷書CBSK1

    欧体楷書

    フォーク R/M/B/H

    勘亭流

    タカハンド L/M/DB/H

    隷書101

    陸隷

    A1明朝

    光朝

    徐明朝

    武蔵野

    明石

    那欽

    毎日新聞明朝体|明朝

    毎日新聞ゴシック体|ゴシックL


  • 自社システム専用フォント(商品名:Lフォント)(上記以外のうちの一部)

    アロー

    ツデイ

    ハッピー

    ソフトゴシック

    ゼンゴシック



    代表的な写植機


    (一部)


  • MC-1


  • MC-2


  • MD


  • MD-T (テレビテロップ用)


  • MC-6


  • MC-58


  • MC-2001


  • MC-100


  • MC-P


  • MK-300


  • MK-500


  • ライノトロン


  • ROBO



    CD-ROM



  • 文字と人間 1999 人類が生んだ200を超える文字(ヒエログリフ、楔形文字からデジタルフォントまで)の歴史を地域や時代ごとに豊富な図版と映像で解説し、文字学の基礎を学べる。



    外部リンク



  • モリサワ






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    - History
     License:GFDL

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    2008年04月21日

    デザイン[工芸家]

    ◆デザインの杜◆工芸家



    工芸家(こうげいか)とは、工芸作品を制作する人のこと。クラフトデザイナーと呼ばれることもある。また、彫刻家を兼ねることもある。



    主要な工芸家





    [日本]



  • 香取秀真


  • 津田信夫



    関連項目



  • 美術・芸術


  • 彫刻


  • 美術家の一覧


  • デザイナー





    外部リンク



  • 日本の伝統工芸士






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    2008年04月20日

    デザイン[アップルコンピュータ]

    ◆デザインの杜◆アップルコンピュータ



    |略称 = アップル

    |国籍 =

    |郵便番号 =

    |本社所在地 = 1 Infinite Loop, Cupertino, California, USA

    |電話番号 =

    |設立 = 1976年(昭和51年)4月1日

    |業種 =

    |事業内容 = Macintosh・iPod開発・販売

    |代表者 = 最高経営責任者|CEO スティーブ・ジョブズ

    |資本金 =

    |売上高 = 240.6億USドル(2007年度)q407fin_statements2.pdf

    |総資産 = 154億USドル(2007年度)(米国報道発表資料抄訳―2007年10月23日)アップル、第4四半期の業績を発表

    |従業員数 = 正社員17,787名; 契約・パート社員2,399名(2006年)10K_2006.pdf

    |決算期 =

    |主要株主 =

    |主要子会社 = ファイルメーカー

    |関係する人物 = スティーブ・ウォズニアック
    ジョナサン・アイブ
    アビー・テバニアン

    |外部リンク = www.apple.com/jp/

    |特記事項 =

    }}アップル (Apple Inc.、) 社は、アメリカ合衆国カリフォルニア州クパチーノ (カリフォルニア州)|クパティーノに本社を置く、デジタル家庭電化製品|デジタル家電製品と関連するソフトウェア製品を設計・製造する多国籍企業である。ハードウェア製品として、パーソナルコンピュータのMacintosh(Mac)シリーズ、携帯音楽プレーヤーのiPodシリーズ、iPhone、ソフトウェア製品としては、オペレーティングシステムのMac OS Xや、ソフトウェアスイート|統合ソフトウェアのiLifeなどの開発・販売を行っている。アップルは、直営店(Apple Store (直営店)|Apple Store)およびオンラインストアにおいてハードウェアとソフトウェアの販売を行っている他、iTunes Storeでは、音楽、オーディオブック、ゲーム、ミュージック・ビデオ|ミュージックビデオ、テレビ番組、映画、と広範囲のデジタルコンテンツのダウンロード販売を提供している。アップルは、専門の音楽・映画産業向けソフトウェア製品の大手の提供元でもある。アップルのプロフェッショナルアプリケーショ\xA1
    %s$O!"Final Cut Pro、Logic Pro、Shake、Final Cut Studioなどがある。同社は、1977年1月3日に設立されて以来、“Apple Computer, Inc.”を名乗っていたが、2007年1月9日 (太平洋標準時|PST) に事業内容を反映させ、現社名の“Apple Inc.”に改称した



    沿革





    [ 創業とApple I ]
    1974年、大学を中退しアタリ (企業)|アタリの技師をしていたスティーブ・ジョブズとヒューレット・パッカードに勤務していたスティーブ・ウォズニアック(以下ウォズ)の2人は、地元のコンピュータマニアの集まりであったホームブリュー・コンピュータ・クラブ(「自家醸造」コンピュータ・クラブ)に参加するようになった。1975年にインテルがIntel 8080|i8080をリリースすると、Altair(アルテア)8080というコンピュータ・キットが早速発売されるようになり人気を博した。ウォズは、8080より、MC6800の流れを汲むMOSテクノロジー社のMOS 6502の方が安く、しかも簡易な回路のコンピュータができると確信し、1975年10月から半年間かけて設計、1976年3月に最初のプロト機を完成させた。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行った。ジョブズは自分達で売る事を考えていたが、ウォズはヒューレット・パッカードの社員であるが故に「開発した製品を見せなければならなぁ
    $!W$H>e;J$K$3$N5!3#$r8+$;$k$,CG$i$l!"<+J,C#$GGd$j=P$9$3$H$H$J$C$?!#%8%g%V%:$O!"%^%&%s%F%s%P%l!<$K$"$C$?%3%s%T%e!<%?%7%g%C%W$N%P%$%H%7%g%C%W$N%*!<%J!<$G$"$C$?%]!<%k!&%F%l%k$K4pHD$r8+$;$?!#%F%l%k$OHs>o$K6/$$6=L#$r;}$A!"30日以内に50台を納品できたら、現金で代金を支払うと提案する。ジョブズは愛車のフォルクスワーゲン・タイプ2|ワーゲンバスを1500ドルで売り、ウォズはヒューレット・パッカードのプログラミング電卓を250ドルで売り払い、100台分の部品を集めた。さらにアタリで営業をしていたロン・ウェインも株式10%分の権利を持つことを条件として参加した。

    彼らは基板、マニュアルの製作にあたった。また、彼らの会社の名前はアップルとなった。この名前の由来には諸説があって代表的なものだけでも、ジョブズがビートルズを尊敬(ビートルズのレコード会社名がアップル・レコード|アップル) / 同じくジョブズがフルーツダイエットをしていた時期があって、そのころリンゴだけ食べればシャワーを浴びる必要が無いと考えていたことから / リンゴは知恵の実で良いイメージ / 電話帳の最初のほうに掲載したかった(頭がA) / 他にも多くの仮説があるが、いずれも米Apple社の公式な説明では無いため真偽は定かではない「アメリカン・ドリーム」(マイケル・モリッツ著)でのウォズのコメントで、社名選考でジョブズが「アップルというのはどうか?」と突然言い出し、それに対して「僕もジョブズも音楽好きであったので、ビートルズのレコード会社として有名なアップルから思いついたのかもしれない」との記載がある。1976年6月に、バイトショップにApple Iを50台納品。666.66ドルの価格がついたが、ぁ
    "$^$jGd$l9T$-$,NI$/$J$+$C$?!#<:K>$7$?%m%s!&%&%'%$%s$O8"Mx$rJ|4~$7$F2q

    [ アップルコンピュータ設立 ]


    Apple Iの最初の取引で、約8,000ドルの利益を手にした。Apple Iを大量に作って売ろうと考えたジョブズは、アタリ時代のボスであったノーラン・ブッシュネルに相談する。ブッシュネルは、ベンチャーキャピタル会社を紹介するが、ジョブズの話に興味を持てず、マイク・マークラを紹介した。マークラは、フェアチャイルドセミコンダクターとインテルのストックオプションで財を成し、若くして隠遁生活を送っていたが、ジョブズの話に興味を持ち1976年11月にアップルに加わった。マークラは個人資産の92,000ドルを投資し、さらにバンク・オブ・アメリカから信用貸付枠を勝ち取った。1977年1月3日、3人はアップルコンピュータを法人化した。1977年5月、ナショナル セミコンダクターからマイケル・スコットを引き抜き、彼を社長の座につける。スコットはアップルをより組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行した。社員番号1は、ウォズニアックに与えられたが、ジョブズはこれぁ
    r%9%3%C%H$K935D$9$k!#$7$+$7!"$rO"$M$?M#0l$N20代(当時25歳)となり、コンピュータ業界の天才児としてもてはやされる事となる。


    [ Lisa(リサ)とMacintosh(マッキントッシュ) ]
    Apple IIの大成功は、青い巨人 (''Big Blue'') と呼ばれたIBMにパーソナルコンピュータ市場への参入を決断させる。1981年にIBM PCが発表されると、アップルは新聞広告で“Welcome, IBM. Seriously”と挑発したが、Apple IIは次第にIBMにシェアを奪われ、新しい製品が待望されるようになった。前後して、1978年にジョブズらがApple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータの概念を練り上げるためのブレインストーミングが始まり、1979年の秋に2000ドル台のビジネス向けを念頭においたLisa (コンピュータ)|Lisa・プロジェクトが立ち上げられたLisaの名前は、ジョブズが当時付き合っていた女性との非嫡出子の名前からとったとされているが、ジョブズ本人はその娘の名前からとったことは認めていない。。この頃、ジョブズはゼロックス|XEROX社にアップルの株式と交換にパロアルト研究所の見学を申し出る。XEROXの役員は特に意識していなかったのだが、現場の開発者からは「ジョブズが来るということは盗用されてもおかしくない」という不満の声もあった。しかし、結果的に見学の申し出は受け入れられ、1979年の11月と12月の2回に渡り見学が行われた。先進的なSmalltalkで動くグラフィカルユーザインタフェース|GUIを持ち、ビットマップディスプレイとマウス (コンピュータ)|マウスで操作されるAltoのデモにインスピレーションを得た。ジョブズは、Lisaにアルトと同じ機能を持たせることを意図し、設計に過剰に介入をし始めた。ジョブズがLisa・プロジェクトを混乱させている原因と考えた社長のスコットは、1980年の秋にジョブズに株式公開のための仕事を割り当てて、Lisa・プロジェクトのメンバーからジョブズを外した。一方で1979年にアップルに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた。マイク・マークラは\xA1
    %i%9%-%s$K500ドル台のゲーム機(コードネーム:アニー)の叩
    4Ev$rBG?
    G$7$?$,!"H`$O500ドル台のパーソナルコンピュータの開発を提案し許可される。彼はカリフォルニア大学サンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い入れ、またApple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で1979年にMacintosh(マッキントッシュ) プロジェクトを開始する。Macintoshは北米ではポピュラーな小型のリンゴの品種名(和名は「旭」 ただしリンゴの綴りはMcIntosh、マックはMacintosh)である。MacintoshはApple VまたはApple 32という商品名で1981年に500ドル程度(直ぐに1000ドル程度に変更)での販売を考えていた。これに対し、ジョブズはプロジェクト開始当初は開発に懐疑的で、反対の立場をとっていた。しかしジョブズは、Lisaプロジェクトから外されたいらだちもあってか、1981年に突如としてMacintoshプロジェクトに乗り出す。Macintoshではハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役であったジョブズの働きで予算も開発メンバーも増えた。ジョブズは、「海軍に入るより、海賊ぁ
    G$"$l!W$H%a%s%P!<$r8]Iq$7!"$3$N@:?@$K4p$E$-Lisa・プロジェクトからメンバーや技術の引き抜きを行った。またMacintoshプロジェクトのあった建物(テキサコ・タワー)の屋上にドクロの海賊旗を掲げさせた。ところが、Lisaを上回るものにしようとするジョブズがソフトに対しても介入を行い、2人の対立は深刻化していく。結局1982年3月、ラスキンはアップルを去った。ジョブズは「Lisaの機能の70%しかなくても、価格がLisaの20%であれば売れる」と70/20の法則をメンバーに説いてまわった。またMacintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、出来上がった基板パターンが美しくないという理由で却下してもいる。このとき、「もし君が大工で美しいタンスを作っていたら、人の見えない部分に合板を貼り合わせてごまかすようなまねはしないはずだ。」と喝破したという。また、同じく美しくないという理由で拡張スロットの採用を拒否し、フロッピーディスク|フロッピーディスクドライブもイジェクトボタンはみずぼらしいという理由で、ソニーに現在にも通ずるオートイジェクトのドラァ
    $%V$r3+H/$5$;!":NMQ$7$?!#%^%&%9!"GUIといったものだけでな\xA1
    $/!";k3P
    E*$K$bF0:nE*$K$bH~$7$/J,$+$j$d$9$$$b$N$r:NMQ$7$?8y@S$OBg$-$$!#Macintoshの開発は難航し、1984年1月にようやくスーパーボウルの伝説のCM『1984』とともにデビューを果たした。しかし、Apple IIとの互換性はまったくなく、当然対応するサード・パーティのソフトもほとんどなかった。そこでアップルは、外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得する職種であるエバンジェリスト(宣伝部)を作り、ガイ・カワサキらを任命した。Macintoshの発売後、マークラはジョブズに干される形でアップルを去ったラスキンに対し、敬意を表する形でMacintoshを送ったが、ラスキンがどういった感情を抱いたかは不明である。社内ではそのような波乱が起きてはいたが、アップルはMacintoshという新たなパーソナルコンピュータを登場させることで、すべてのコンピュータ業界に新たな方向性を示したのだった。そしてアップルは、Macintosh向けにキヤノンと共同開発したレーザープリンタであるLaserWriterを登場させることで、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗いディザを表示させるこ\xA1
    $H$J$/!"4qNo$J%"%&%H%i%$%s$G=PNO$9$k$3$H$r2DG=$K$7$?!#$^$?!"%"%k%@%9

    [ ジョブズ追放 ]


    1981年、スコットは能力不足を理由にマークラに解雇される。暫定的にマークラが社長の座についたが、ジョブズは(会長ではあったものの)自身の経営者としての資質に疑問を抱き始めており、スコットの後任としてマーケティングに優れた社長となる人物を連れてくる必要に迫られた。ジョブズは、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、18か月に渡る引き抜き工作を行う。このとき、スカリーを口説くために彼が述べた言葉、「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかんでみる気はないのか?」''(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)'' はあまりにも有名である。1983年ジョン・スカリーはアップルの社長の座に就く。ジョブズとの関係は「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるようになり、二人の関係は常に良好だった。1984年1月にはMacintoshのデビューに立ち会い、順調に経営が進行するように思われた。しかし、1984年のクリスマスシーズンは、需要の予測を大きく誤り、Macintosh $B$N2a>j:_8K$KG:$^$5$l$k$3$H$K$J$C$?!#$3$NBh4四半期で初の赤字を計上、従業員の1/5にあたる人数の削減を余儀なくされた。アップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、1985年4月にMacintosh部門からの退任をジョブズに要求、取締役会もこれを承認した。スカリーはこれで穏便に済むと考えていたが、ジョブズはスカリーが中国に出張している間に彼をアップルから追放することを画策した。このことはジャン=ルイ・ガセーにより事前にスカリーに伝えられ、1985年5月24日の取締役会でジョブズの画策をスカリーが問い質し、他の取締役にスカリーとジョブズのどちらかを選ぶように告げた。取締役のほとんどはスカリーを選び、ジョブズは5月31日にアップルでの(会長職以外の)すべての業務から外された。スカリーは「一番の大株主であり、会長でもあるのだから大人しく引退することを望んでいた」と言うが、それに反するようにジョブズは当時所有していたアップルの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、NeXT社を創立した。それと同時にスカ\xA1
    %j!<08$F$KM9Aw$G<-?&4j$rDs=P$7!"2qD9?&$b<-G$$7$?!#

    [ Newton]


    スカリーは、Macintosh以外にアップルの柱となる製品が必要だと感じていた。スカリーはコンピュータの未来像としてというものを描いていた。これは、コンピュータがユーザの優秀な秘書をこなし、言葉や簡単なリモコン操作のみで自由自在に操れるという物で、この後の予定を教えてくれたり、電話を取り次いだり家に居ながら会議が行える。Appleは、ナレッジ・ナビゲータを仮想ではない近未来のコンピュータとして提案した。一方、ガセーの許可を受け1987年頃にはアップル・ニュートン|Newtonとよばれる携帯情報端末|PDA開発のプロジェクトを開始していた。スカリーはこのNewtonに自身のナレッジ・ナビゲータを感じ取り、開発に力を入れるようになっていった。1990年、スカリーはMacOS互換機(後述)及びニュートンの方向性を巡ってガセーと対立する事となる。ガセーを辞職させた後、スカリー自身は技術者でないのにも関らずアップルの最高技術責任者|CTO (最高技術責任者)に着任した。そして1992年、CPU にARMアーキテクチャ|ARMを採用し、ペンデバイスによる手書き認識などを\xA1


    [ Macintosh互換機 ]


    ジョブズがアップルを去ったのに前後して、1985年6月25日にスカリーとハード担当責任者であったガセー宛に、マイクロソフトのビル・ゲイツから「AT&Tやヒューレット・パッカード、ソニーなど有力メーカーにMacintoshのOSをライセンスするべきで、ゲイツ自身もその手助けを惜しまない」という内容のメールが送られた。ゲイツは自社でのOS開発凍結も考えていたほど本気だったようだ。スカリーはOSライセンスの可能性について調査を指示したが、ガセーを筆頭にした技術陣からの猛反対を受けてこの提案は闇に葬られた。その後、パソコン用の16ビットCPUは逐次32ビットに移行していく。アップルの採用したモトローラ系ではMC68000、MC68020、MC68030、MC68040と推移していく。モトローラのCPUは最初のMC68000から、32ビットへ容易に移行できるように設計されていた。アップルはライセンス違反をしているとして、マイクロソフトに対してGUIに対する対価を求めて裁判を起こす。ジョブズが復帰(後述)する頃まで裁判は長引き、その時点ではアップ\xA1
    %k$KBP$7$FITMx$J:[Dj$,2<$k;v$K$J$k!#$7$+$7$=$N?tG/A0!"%<%m%C%/%9$,%"%C%W%k$KBP$7$FF1MM$N:[H=$r5/$3$7!"%<%m%C%/%9$KBP$7$FITMx$J:[Dj$,2<$C$F$$$k;v$bM-$j!"G.?4$J%^%C%-%s%H%C%7%e!&%f!<%6$OJ#;($J?46-$rJz$$$F$$$?!#%"%C%W%k$O%^%$%/%m%=%U%H$NMicrosoft Windowsに対して市場競争を模索する。これより MC68000|68000 系以外のCPUコンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャへの移行である。その一つ80x86|x86系への移植プロジェクトであるスタートレックが、1992年頃にNovellの協力を得て開始される。しかし計画は後述のPowerPCに専念するため中断され、日の目を見ることは無かった。1990年、アップルはスカリーの後任として、アップルのヨーロッパ市場で実績を持つマイケル・スピンドラーを社長に据える。スピンドラーはIBMと交渉し、同年アップルはIBM とモトローラと組んで新しいパーソナルコンピュータのプラットフォーム開発を発表した。IBM PCとマッキントッシュの経緯から、この共同開発発表は西海岸と東海岸の巨頭同士の歴史的和解とも言われた。新しいPCは、 (BCPUにRISCチップであるPowerPC、OSとして (BTalige
    nt(開発コード:Pink)、アプリケーションとしてマルチメディア開発ツール・Script Xとも呼ばれた「カレイダ」からなる予定であった。技術者が休暇中に趣味で作り上げた68000系エミュレータの出来がよく、またTaligentの開発は困難を極めたため、1994年、PowerPCとMC68040|68LC040エミュレータを搭載し、従来の68000系のバイナリプログラムの動作も可能なPower Macintoshシリーズを発表する。それまでの上位機種であったMacintosh Quadra|Quadraをベースにしており、記憶装置|メモリに72pinSIMM、拡張スロットバスにNuBusを採用する等、ハードウェアの互換性も計られていた。しかし当時のMac OS(Sysytem 7.1.1や7.5.2)はバグが多く、度々エラーやフリーズを起こし、快適さと相反する不安定さも兼ね備えていた事実は否定出来ない。Mac OS 7.6までにはその不安定さは解消されたが、Mac OS 9.2.2に至るまで100%のPowerPCコードで作られたOSとはならず、完全なるPowerPC専用のシステムはMac OS Xの登場まで待たねば\xA1
    $J$i$J$+$C$?!#7.6登場の前後、PowerPCによる実質的なマッキントッシュ互換機のための仕様であるCHRPが策定される。CHRPは、PowerPCを搭載するマッキントッシュ上でMicrosoft Windows NT|Windows NT等のIBM互換機で動作するOSをネイティブに動かす事が出来、以後のOSに対する方向性を打ち出した物だった。しかし、互換機に対する抵抗感があるアップルは二の足を踏む事となり、1997年にNeXT社を買収したことによるRhapsody(後述)の登場によってCHRPの存在意義が無くなってしまった。1995年後半になると、マイクロソフトはMicrosoft Windows 95|Windows 95を販売開始する。Windows95は、従来のMS-DOS上のMicrosoft Windows 3.x|Windows 3.1ではなし得なかったデスクトップ環境とディレクトリ|フォルダ管理のGUI化を果たし、OSの性能においてMac OSの脅威となる事となった。使用感や確立された操作性はMac OSに遠く及ばない物では有ったが、操作性が3.1に比べて大幅に向上した事も伴い、長らく不満を募らせてぁ
    $$?IBM互換機ユーザ間で爆発的にヒットし、パソコンブームま\xA1
    $G0z$-5/
    $3$97k2L$H$J$C$?!#0lJ}$G%"%C%W%k$O!"Mac互換機ライセンスを開始する。これに伴いパイオニアが初のMacintosh互換機|Mac OS互換機を発表すると、パワーコンピューティング、アキア|akia、UMAXなどが続々とマッキントッシュ互換機を発売する。しかし、PC/AT互換機からの市場奪還には失敗する結果となってしまう。後にアップルに復帰し最高経営責任者|CEOに就任したスティーブ・ジョブズは、マッキントッシュ市場が成長せず共に食い合う様相になり、アップルの業績を落とす結果になっているとし、一切のライセンスを打ち切ってしまう。以後、Power Macintosh|Power Macintosh G3の登場と共にMac OSはアップルのマッキントッシュでしかサポートされなくなる。


    [ アップル売却交渉 ]


    後に公表される事となるが、サン・マイクロシステムズとは1988年ごろから合併交渉を行っていた。1990年には、ほぼ合意に達していたが、アップルがIBMとモトローラとの提携を発表したことで白紙に戻ってしまった。その後もAT&Tやコダックと交渉を行うが企業風土の違いでまとまる事はなかった。ニュートンや政治(スカリーはビル・クリントンの大統領選挙応援に力を入れていた)など、Macintoshに力を注いでいないスカリーの行為に、アップルの取締役会は、不信の目を向けるようになった。1993年に業績が大幅に悪化すると、1993年6月18日、ストックオプションなど約1000万ドル相当の退職慰労金を手にスカリーはCEOを退任し、アップルのヨーロッパ市場で功績を上げていたマイケル・スピンドラーが新たなCEOに就任する。1993年にスカリーの後任としてCEOに就任したスピンドラーの仕事は、アップル本社を高く売ることだったとも言われている。1994年は低価格Macintoshのパフォーマシリーズを増産してクリスマスシーズンを迎えたが、スピンドラーはこの需要予測を臓
    g$-$/30$9;v$H$J$k!#%j%5!<%AItLg$H%;!<%k%9ItLg!"99$K$O3+H/ItLg$^$G$b$,$=$l$>$lBg$-$/BPN)$7$F$$$?;v$H!";T>l$G$OPower Macintosh等のハイスペックマシンの需要が高かったにも関わらず、ロースペックで利益率の悪いパフォーマの在庫が日に日に増えて行き、需要の高いPower MacintoshやPowerBookが品薄状態で、生産が全く持って追いついていないと言う最悪の結果となった。当時のアップルは内部のゴタゴタが余りにも多く、悲惨な状態であった。需要予測を外した上に、スピンドラーの指示を誤解したセールス部門は、ただでさえ利益率の悪いパフォーマを赤字でバラ撒いて売りさばいてしまった。それ以外にもさまざまな要因が重なり、この四半期で赤字は8000万ドルに達した。その頃(1995年)アップルはキヤノンと1株54ドル50セントでの買収交渉を行うが、キヤノンの社長が急死した事も重なり、最終的には実現する事はなかった。そしてアップルは再びIBMと交渉の場を持つが、IBMはロータス社を買収しサービスビジネスに会社を方向転換の最中で、アップル買収にはお世辞にも前向きな姿勢とは言えなかぁ
    C$?!#$=$N>e!"IBMはどんな買収交渉であっても、結論を出すま\xA1
    $G$KESJ}
    $bL5$$;~4V$r$+$1$k;v$,DLNc$G!"8r>D$KF~$C$F$b$^$C$?$/2;:;BA$,L5$$$H8@$&;v$,B?$$4k6H$G$"$k!#

    どんな形であってもアップルを売り出したい取締役連中は、その余りにも遅いIBMの動きだけに目をとらわれてしまい、実際のIBMの過去の動向には全く気付いていなかった。最終的にはIBMとの交渉は決裂してしまい、その後にはフィリップスと1株36ドルで交渉を行うが、フィリップスの役員会であっさりと否決されてしまう。1996年1月23日の株主総会で、アップル再建策としてマック互換機ライセンスビジネスの加速と人員削減による提案を行うが、株主から辛辣な言葉を浴びせられる。総会後の取締役会でサン・マイクロシステムズのスコット・マクネリも参加して最後の買収交渉(1988年時とは異なりアップルが吸収される立場)が行われた。マクネリはアップル1株につき23ドルを譲らず、買収交渉は頓挫。その後の取締役会で、スピンドラーは責任を取らされる形でCEOの座を下ろされる事となる。マイク・マークラを筆頭とするアップルの取締役会はスピンドラーの後任として、かつて倒産寸前だったナショナル セミコンダクターを再建し、アップルの社外取締役にも就任していたギル・アメリオ\xA1
    $rCEOの座につけた。アメリオは後に、「当時の取締役の(アメリオを除く)全員がアップルをどこに売り渡すかと言う事しか考えておらず、アップルを再建する事はみじんも考えていなかった」と語っている。大のMacintoshファンでもあったアメリオは、アップルを売る事しか考えていなかった取締役のほとんどに失望を覚え、アップル再建の道標となるべく一歩を踏み出した。


    [ Copland ]


    MacintoshのOSは、1984年の出荷以降、System 7まで大幅に強化改良されたものの、基本的な部分はほとんど進化していなかった。1990年代に入ると、マルチメディアやネットワークの時代を迎え、従来はミニコンや大型汎用機のOSの機能であったマルチタスク(プリエンプティブマルチタスク)、メモリプロテクション (メモリ保護)、仮想メモリ、ネットワーク機能を備えた“モダンOS”が、次世代のパソコン用OSに必要だと考えられるようになった。System 7が提供するマルチタスクも仮想メモリもあくまで擬似的な物で、モダンOSにはほど遠く、継ぎ接ぎで機能を拡張した結果、動作が不安定になりやすいという欠陥を抱えていた。いくら操作性や外観が良くとも、Mac OSは頻繁な強制再起動が強いられる不安定なOSとしての評価を受ける事となってしまう。この問題を解決するために、アップル社内では、幾度にも渡り新しいOSの作成が計画された。当時のSystem 7の機能を拡張してネットワーク機能やGUIを拡張する"Blue"計画は、System 7.5としてリリースされたが、漫
    $Mh;V8~$N!H%*%V%8%'%/%H;X8~OS”を作る“Pink”計画は、IBMも巻き込んで別会社を作り開発し始めたが、要求仕様だけが膨らみ続け、道半ばで頓挫した。Pink OSの反省からやり直された新OSが開発コード「Copland」で、System 7.x系と互換性を持たせつつ、革新的なGUI、暫定的なマルチタスク機能と暫定的に改良されたメモリ管理機能を提供し、メモリ4MBのMac Plusでも動作するほどコンパクト、というふれこみであった。さらにCoplandの先には、モダンOSの条件を備えた、開発コード「Gershwin」が予定されていると発表された。1996年5月、アップルは「Worldwide Developers ConferenceでCoplandを「Mac OS 8」として発売する」と発表した。しかし、期待されていたベータ版の配布は行われず、基調講演でアメリオが新しいFinderのデモを見せる程度で終わってしまった。この頃、Coplandは各モジュールがバラバラに開発されている状態で、OSとして組み上げられないという悲惨なものであった。また、Gershwinは名前とコンセプトの拭
    ($l9~$_$@$1$G!"3+H/$OA4$/u67$rD!
    4$Y>e$2$
    ?CTO兼副社長のエレン・ハンコック女史は、Coplandが完成する見込みがないと早々に判断を下した。アメリオとハンコックは、Coplandの開発中止を発表し、予定されていたCoplandの機能は、半年おきに「Harmony」「Tempo」「Sonata」(いずれも開発コード)として、少しずつリリースすると発表した。長らくOSの座を担っていたSystem 7.5系はSystem 7.5.5で打ち止めとなり、翌1997年1月に安定性を増し、「Mac OS」という呼称を初めて公式に採用した「Mac OS 7.6」が発売された。半年後には、Coplandの最も大きな特徴である新ファインダーを搭載した「Tempo」がMac OS 7.7として発売される予定だったが、アップルはこれを結局「Mac OS 8」の名で、久々のメジャーアップデートを行ったMac OSとして発売する。Mac OS 8はMacユーザの間では大ヒットし、アップルは高利益を受け復活の足がかりとなった。その後Mac OS 8.1となり、Coplandの売りの一つであったフォーマット形式、HFS+を採用する。HFS+は現在のMa!
    c OS Xでも利用される事となる。Mac OS 8.5、Mac OS 9がほぼ1年おきにリリースされたが、Coplandのもう1つの“ウリ”であった、GUIの外観を変更するテーマ機能がMac OS 8.5発売直前に封印されたり、IBMやNovellの撤退でOpenDoc計画も中止になり、Coplandは次第に記憶から消えていった。Copland計画を白紙に戻したアメリオとハンコックは、次期Mac OSとなる新たなOSを外部から調達する事を決定する。その中には マイクロソフトのWindows NT、サンマイクロシステムズのSolaris、IBMのOS/2、BeのBeOSを候補として、調査と交渉を行った。なかでもBeOSこそ本命と噂されていた。1995年、PowerPC 603を2機搭載したBeBoxを発表したBe社は、1990年にアップルを追われた元ハードウェア担当社長のジャン=ルイ・ガセーが創業した会社である。BeOSは、コンパクトなオブジェクト指向のOSを目標とし、モダンOSとしての条件をすべて備え、マイクロカーネルによる高い移植性を亜
    ];}$7$J$,$i%^%k%A%?%9%//マルチスレッドの高負荷時にカーネ\xA1
    %k!&%5!<
    %P4V$KDL?.$,%\%H%k%M%C%/$K$J$i$J$$!"$J$I$NFCD'$r;}$DOSとなる予定であった。音楽や動画関係に強く、かつ軽快に動作することを目指したBeOSは、自社のBeBoxを生産中止にした後、非常に短期間の間にPowerMacintosh用に移植され、その後IBM互換PC用にもこのBeOSを短期間で移植している。1996年中頃には、Beとアップルの買収交渉が本格的に始まった。ガセーは1億ドルを要求したが、アップルは5000万ドルと見積もっていた。アメリオはこのBeOSに高い関心を寄せていたが、BeOSは未完成でAPIが整備されておらず、BeOSを買収したとしてもMac OSとして出荷できるようになるまでには数億ドルの投資と、数年にも渡る歳月が必要だと見積もられていた。なかなかBeOSの売り込みが進まないBe社は、BeOS開発版である「BeOS PreviewRelease」をMac互換機を作っていたパワーコンピューティングにライセンスを行うなど、挑発的とも取れる行為を行うようになった。1996年の11月頃、アップルが次期OSを外部に求めているという話ぁ
    rCN$C$?NeXT社のエンジニアは、スティーブ・ジョブズに打診。公表されてはいなかったがNeXTはハードウェアから撤退し創業以来初の黒字となっていたものの経営状態は良好とはいえず、ジョブズはこの話を受けてアップルとアメリオに対してOPENSTEPを売り込んだ。ジョブズは12月上旬に、1985年以来初めてアップル社内に入り、アメリオら首脳陣と話し合いを行った。12月10日にはBeOSとOPENSTEPの比較プレゼンテーションが行われたが、勝利を確信していたガセーがほとんど事前準備をしていなかったのに対し、周到に準備をしたジョブズがカリスマ的なプレゼンテーションを行い、ガセーは敗れ去った。12月20日にアップルがNeXT社を4億ドルで買収することを発表し、次期OSの基盤技術としてOPENSTEPを採用すると発表した。


    [ iMac ]
    1997年2月に正式にNeXT買収が成立し、アメリオの要請も有りジョブズはアップルに非常勤顧問という形で復帰した。この時、アメリオからプレゼントされた20周\xA1
    G/5-G0Macintosh(20th Anniversary Macintosh)を窓ぁ
    +$iEj$2<
    N$F$?$H$$$&1=$,??$7$d$+$KSq$+$l$?!J$A$J$_$K%&%)%:$K$b$3$N5-G0$9$Y$-Macintoshがプレゼントされた)。アップルに復帰したジョブズは、取締役を巻き込み、アメリオを追放すべく策を企てる事となる。7月にアメリオが辞任する事となるが、それ以前にジョブズは徐々に復権して行ったのだった。アメリオ辞任に伴い、取締役会はジョブズにCEO就任を要請したが、彼はこれを拒否し「責任がそれほど大きくない一時的なことであれば構わない」と言い、暫定CEOとして就任する事になる。ジョブズは、その思惑通りに事を進めて行く中で、士気を上げるため従業員のストックオプションの引き下げを取締役会に提案した。しかし、取締役会がこれを否定すると、ジョブズは取締役全員に辞任を迫ったのだった。結局、マイク・マークラを含む取締役陣は、そのほとんどが辞任する事となる。代わりに、オラクル (企業)|オラクルのラリー・エリソン、インテュイットのビル・キャンベルらを取締役に迎え入れ、取締役会はほぼジョブズ寄りのメンバーに再構成されたのだった。ジョブズは1997年、低迷を続けていたNewton事業を別会社に分離\xA1
    $7!"$=$N8e%"%C%W%k$KLa$97A$G@6;;$7$?!#F1G/%^%$%/%m%=%U%H$HFC5v$N%/%m%9%i%$%;%s%9$*$h$S6HL3Ds7H$r7k$s$@!J%"%a%j%*$,%S%k!&%2%$%D$HD9$i$/8r>D$7$F$-$?Cf$GF\:C$7$?FbMF$G$"$C$?!K!#%"%C%W%k$ONetscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigatorに代わりInternet Explorerを標準ウェブブラウザとしてバンドルする事と引き換えに、マイクロソフトはMicrosoft OfficeをMacintosh用により一層最適化させ、更にMacintosh版とウィンドウズ版を同時リリースするということである。更にマイクロソフトはアップルに対し1億5000万ドル以上と言われる出資(額は非公表、議決権のない株式を発行)を行った。そしてボストンで行われた1997年のMacworld Conference & Expoでは、ジョブズの基調講演の最中にゲイツがスクリーン中に登場し、それらの提携を発表する事となる。歴史的和解とも取れるこのコンピュータ業界の大物同士の両者の演出は、発表された提携内容よりも話題性の方が大きく報道され、関心の深い者には良くも悪くも波紋を呼ぶ結果となった。かねてから開発が進んで\xA1
    $$$?PowerPCの新たな製品としては、第3世代の意味を持\xA1
    $DRIS
    CチップであるPowerPC|PowerPC G3を発表。モトローラとIBM、アップルの共同開発で進められたこの次世代チップは、新たなMacに搭載され、Power Macintosh|Power Macintosh G3として発売される事となる。またG3の発表と並行して「赤字の元凶で共食い競争でしかない」とされたMacintosh互換機メーカへのMac OSライセンスを順次停止して行く事も決定。そのうちの1社であるパワーコンピューティング社を買収し、アップル自身がオンライン直販を行うことを決める。これが後にApple Store として展開して行く事となる。1998年、アップルのソフトウェア部門の別子会社であったクラリスをファイルメーカー社と改名し、FileMakerの開発・販売に専念させ、AppleWorks|クラリスワークスに代表されるその他のアプリケーションの開発・販売権をアップルに戻す決定もなされる。

    同じ頃、アップルは“Think Different.” キャンペーンを大々的に開始する。この"Think Different."では各界の偉人・著名人をCMに起用し、アップル自身のイメージ転換戦略が計られた。1998年5月には、Worldwide Developers ConferenceでiMacを発表する。このiMacは無骨なベージュ色の機械の塊ではなく、ポリカーボネイト素材をベースに半透明(トランスルーセント)筐体を採用した、人間の感性に呼びかけるデザインテーマの製品であった。このデザインは視覚的にも訴えかけていたが、ボンダイブルーなる青緑のカラーリングにマスコミはこぞって賞賛を送る事になる(デザイン界では意見は二分されたが、その年のグッドデザイン賞では金賞を獲得)。iMacの存在意義はそれだけでなく、単純明快なコンピュータである事を示すべく、それまでのSmall Computer System Interface|SCSIインタフェース (情報技術)|インターフェイスやRS-422RS232-C|シリアルポート、ADB等を廃止し、当時のPC/AT互換機で採用が始まっていたUniversal Serial Bus|USBを新たに標準ぁ
    H$7$F:NMQ$7$?!#99$K!"%Y!<%8%e$dGr$@$C$?%3%s%T%e!<%?6H3&$rH]Dj$9$kMM$K%H%i%s%9%k!<%;%s%H%G%6%$%s$r:NMQ$9$k;v$G!"%8%g%V%:$O$3$NiMacにも似合う周辺機器が開発される事を見越しており、サードパーティ各社はこぞって新製品や現行品の改訂版として同様の半透明素材を採用した製品を発表した。アップルは後にこのiMacのリビジョン改訂を行い、5色になったiMacは"Candy"と名付けられ、色名も"ブルーベリー"、"タンジェリン"、"ストロベリー"、"グレープ"、"ライム"の名称が与えられる。その後もカラーテーマを替えて人目を惹き、それに付随する様にスロットローディングタイプのCD-ROMドライブを採用したり、Power Macintoshにしか与えられていなかったIEEE 1394|FireWireポートを採用する等でヒットを続け、iMacはアップルに久しぶりの大きな売り上げをもたらした。iMacの特徴はそれだけでなく、初代Macintoshから続くコンパクトマックの特徴であった"取っ手"を復活させ、発表時にはiMacの画面に"hello!
    (again)"と表示させていた事も、アップルの原点押
    s5"$r0u>
    ]IU$1$k7k2L$H$J$C$?!#!J=iBeMacintoshの発表時、その画面に"hello"と表示されていた事からの引用)その途中には"iMac to go"というコンセプトのiBookが発表される。"ブルーベリー"と"タンジェリン"と言ったiMacでの売れ行きが良い2色を用い、簡略化された各ポートと、頑丈なポリカーボネイトのボディーを採用したiBookはそれなりのヒット商品ではあったが大きさや重量と形状から日本では不評であった。後にiMac同様に数色がラインナップに加わり、FireWireポートも追加される事となる。その後、2002年にはPowerPC G4を搭載、Duckneckという首降り機構のついた液晶ディスプレイを一体化したiMac、2004年秋にはPowerPC 970|PowerPC G5を搭載し、厚さわずか5cmのボディに液晶画面とともにおさめたiMac G5、2006年にはインテル製チップを搭載したiMac (Core Duo)が販売される。これにより、iMacでMicrosoft Windows XP|Windows XPを動作させようという動きがサードパーティ等から出始め、同年4月には\xA1
    %"%C%W%k-MhDs6!$9$k%=%U%H%&%'%"!VBoot Camp」(現在は正式公開されている)を利用する事により、Windows XPがIntel Mac上で動作可能になると発表した。


    [ Mac OS X ]


    Mac OS X Server|Rhapsodyがサードパーティーに受け入れられないと判断すると、Macintoshで用意されている Application Programming Interface|APIのうち、使用頻度の高いAPIを抽出してCarbonとよばれるAPIをRhapsodyへ採用することを発表する。これにより次期OS Mac OS Xへの移植を促進させることを期待した。CarbonとはMac OSのAPIをRhapsodyに提供するものである。もし、サードパーティのソフトウェアがCarbon内のAPIだけで動いている場合、再コンパイルすることなくMac OS X上で動作する事になる。Carbonは、元々Mac OS上のQuickTimeをMicrosoft Windowsに移植するために作られたと言われている。膨大なQuickTimeを一から、Rhapsody上で作り直す手法をアップルは取らなかった。Mac OSにありRhapsodyに欠けているAPIを追加する事により、Windows同様にRhapsody上でそのままQuickTimeが動くはずだ、という考え方を採用した。Carbonとは、Mac OS Xに提供されたMac OS B8_49$NAPI群である。Rhapsodyは元々「BlueBox」と呼ばれるMac OS 8.5をベースとした仮想環境と、「YellowBox」と呼ばれるOPENSTEPをベースにしたAPIと、BSDとMachをベースにしたカーネルによって構成されていた。その内のYellowBoxは基本的にOPENSTEPのAPIであり、そのOPENSTEPはカラム表示やウィンドウシステム、またDockなど、登場時のUIは革新的な物であった。

    そのMac OSにも引けを取らない使い易さと、UNIXベースの安定さを兼ね備え、YellowBoxを備えたOSはMac OS X Server 1.0としてリリースされる事になる。同時に、Mac OS 8.5との互換性及び共存性を持たせる意味で、Mac OS X ServerとMac OSのデュアルブートを可能にしており、PCIバスを持つPower MacintoshやG3チップを積むPower Macintosh G3でサーバ用OSとして動作した。2000年9月13日には、次世代オペレーティングシステムであるMac OS X Public Betaを発表した。Mac OS X Server 1.0がアイコンや内部構造、またシステム自体に色濃くOPENSTEPの名残を残していたにもかかわらず(事実、Mac OSでの「このMacintoshについて」の項目は無く、代わりにOPENSTEPで用いられていたWorkspace Managerが存在していた)、新たなMac OS XはAqua (コンピュータ)|Aquaという表現方法を採用し、Mac OS X Server 1.0ともMac OSとも全く違う、大きく変わった外観を持っていた。奇麗なグラフィカルユ\xA1
    !<%6%$%s%?%U%'!<%9|GUI表示となったMac OS X だったが、大きく変わった操作性についてユーザから戸惑いの声が上がった。2001年、Mac OS X v10.0 “Cheetah” を発表。GUIが改良されるがまだまだ完成度は低く、パーソナルコンピュータ市場はすでにWindowsが独占しており、単なる新しいOSとして売り出すには見た目のインパクトだけでしか勝っていなかったと言える。そこでアップルはパーソナルコンピュータ単体ではなくデジタル家電分野への参入が必要だと判断し、Macintoshを核に様々なデジタル機器を連携させる「Digital Hub」という構想を打ち出した。2001年、Mac OS X v10.1 “Puma” が、Mac OS X v10.0の登場からわずか7ヶ月で発売。10.0からの無償アップグレードサービスが行われる。10.0に欠けていた様々な機能が追加され、実用的に使える初めてのバージョンとなった。マイクロソフト、アドビなどから少しずつ対応ソフトがリリースされ始め、先進的ユーザーから受け入れられる。2002年、Mac OS X v10.2 “Jaguar”\xA1
    が発表。事実上、このバージョンが現在に続くMac OS X B$N40@.7
    ?$H8@$($k!#$3$N%P!<%8%g%s$+$i>/$7$:$D5l%f!<%6!<$K$b
    、東京女子大学に大量導入された。2005年4月29日、Mac OS X v10.4 ”Tiger” 発売。システム内部が大きく進化した。システムに統合されたデスクトップ検索機能Spotlight、ダイナミックHTMLベースのアプリケーション実行環境Dashboardのほか、200 以上の拭
    75!G=$rEk:\$7$?!#%;%-%e%j%F%#5!G=$,=<$i6d9T、神戸大学にNetBoot端末としてIMac#iMac_G5|iMac G5が大量導入された


    [ iPod ]


    2001年、それまで主流だったフラッシュメモリ型とは一線を画す、大容量ハードディスクドライブ型携帯音楽プレイヤーiPodを発売。当初は価格の高さにより売れ行きを疑問視する声が少なくなかったが、直感的な高い操作性と、管理ソフトiTunesとの抜群の連携機能もあり、徐々に売上を伸ばす。当初はMac版しかなかったiPodであるが、後にWindows版のiPodも発売される。その後、Windows用、Mac用といった区分けはされなくなり、Windows向けiTunesが提供されたころからヒット商品となる。そして廉価版とも言えるiPod miniを登場させた事で爆発的にヒットする。

    さらに2003年には、オンライン楽曲販売のiTunes Music Store(現在のiTunes Store)を開始。2004年にはiPodをヒューレット・パッカードにライセンスするなど、携帯音楽市場で、米国を中心に独占的な地位を確保するに至った。日本でもウォークマンを圧倒し、2003年以降一貫してデジタル携帯音楽プレーヤーのシェア1位となる。iPod miniの後継モデルとしてiPod nano、またシャッフル再生というコンセプトをメインに据えることにより低価格化とより一層の小型化を実現したフラッシュメモリ型のiPod shuffleも発売され、人気を博している。iTunes Music Storeは日本においては、2005年8月4日より開始された。登録楽曲数100万曲、1曲150円か200円という低価格で始まり、開始よりわずか4日で100万曲ダウンロードを達成する。ポッドキャストと呼ばれる新しいデジタル配信媒体を構想し、テレビよりも技術革新が進まないラジオのデジタル化に革新をもたらすことが期待されている。現在アップル社において最も収益を上げている部門であり、!
    Macにもそのハロー効果が及びはじめている。iPodが登場した当初は、現状のような大成功を収めると思っている関係者が多かったわけではない。初期には価格の高さ、利用にはパソコンが必須となるコンセプトが理解されなかったことにより、懐疑的な意見が多くあった。しかし2001年前後にアップルが提唱していたコンセプト「デジタルハブ」(多くのデジタル機器の中心にパソコンを据えるというコンセプト)構想が時宜を得て、iPodは携帯型音楽プレイヤーの代名詞となった。



    ロゴマーク
    Apple が創業されたときのロゴマークは、アイザック・ニュートン|ニュートンがリンゴ|林檎の木に寄りかかって本を読んでいるところをモチーフにした絵(ロン・ウェインのデザイン)であった。しかしこれでは堅苦しいと考えたスティーブ・ジョブズは、レジス・マッケンナ社のアートディレクターロブ・ヤノフに新しいロゴマークのデザインを依頼する。ヤノフは、シンプルな林檎の図案の右側に一かじりを加えた。「一かじり」を意味する “a bite” とコンピュータの情報単位の “bit” をかけたのだというbiteとbitをかけたというのは後から考えられた俗説だともいわれている。初期のロゴは林檎の実とappleの文字の組み合わせで、aの左下のラウンドした部分が林檎に重なっており、そこから「a」の文字を削ると丁度「林檎の実」をかじった\xA1
    7A$K$J$j!"$=$l$r4JN,2=$7$?$H$b$$$o$l$k!#$^$?!"%8%g%V%:$,%S!<%H%k%:$N%8%g%s!&%l%N%s$r7I0&$7$F$$$k1F6A$G!X%8%g%s$N:J!"%*%N!&%h!<%3$N7]=Q:nIJ$K!VAPPLE」という生のリンゴを使った作品があり、ジョンが見たとき、ふざけてその作品のリンゴを齧ったエピソードがある。Apple Computer社のひと口齧ったリンゴマークは、そのジョンの遊び心のある行為=固定観念に縛られず遊び心のある会社になりたいという想いに由来』という説もある。ただし、ロゴマークについて同社からの公式見解は一切無い為、いずれの説も全くの「仮説」にすぎない。
    。最初はモノクロだったが、ジョブズが、Apple IIのカラー出力を印象づけるため、カラー化を指示し、6色の横縞が追加された。1997年にジョブズが暫定最高経営責任者|CEOとしてAppleに復帰し、IBMライセンスを受けるまでの間は、6色で塗り分けた横縞が入っていた。2006年現在、現CEOジョブズの働きかけにより、単色の林檎のデザインが使用されている。1985年、芸術家でポップアートの旗手として有名なアンディ・ウォーホルは、App!
    leとのコラボレーションにより6色アップルのMacintosh!
    ロゴ\xA5
    ^!<%/$r%b%A!<%U$K$7$?:nIJ!VAPPLE」を発表。没前の代表作である。



    CM


    コンピュータ企業には多い傾向だが、特にいわゆるウィンテルに対して挑戦的なCMを製作する。IBMがパソコン業界に参入したときは「Welcome!」と出迎え、ファイル名がFile Allocation Table|8.3形式の文字の制限が緩和されたWindows 95の発売に対し広告で『C:\ONGRTLTN.W95』(「congratulations Windows 95」を8.3形式で無理矢理表現したもの)と皮肉った祝辞を送り、発熱量の多いインテルチップが高温で燃えるようなCMも作っていた。そんなAppleのCMでとりわけ話題になったものがある。それは1984年に製作され、スーパーボウルの試合中に放送された。タイトルは、前述の通り初回放送された当年に由来した「1984」。その内容は、「1984年1月24日、Apple社はMacintoshを発表いたします。そして我々は、今年1984年が小説『1984年 (小説)|1984年』に描かれているような年にならないということをお目にかけましょう…」と言うもの、このCMは、映画「ブレードランナー」等を手掛けた監督・リドリー・スコット作によるも\xA1
    $N$G!"%S%C%0%V%i%6!<$J$kFH:[。2006年よりアメリカおよび欧州で、"I'm a Mac", "I'm a PC" の台詞から始まる、"Get a Mac."と呼ばれるCMを放映している。それにはカジュアルな服装のスティーブ・ジョブズ似の青年(Mac)と背広にネクタイのビル・ゲイツ似の中年(PC)との二人のショートコント仕立てで、PC との比較広告を行う。他の国では基本的に米国版(フランス・ドイツ・イタリアでは各言語に吹き替えられている)を流しているが、日本とイギリス|英国では米国とは別バージョンのCMを放映している。日本ではコンセプトを継承しつつお笑い芸人ラーメンズを起用したものとなり、内容も異なる。この CM ぁ
    O==?tJT6a$/$"$k$,!"$$$:$l$b PC の、コンピュータウイルス (B|ウ
    %$%k%9$KBP$9$k6<0R!JMacではウイルスが無いような表現をしている)、マルチメディアへの弱みや「玄人向け」イメージを痛烈に皮肉る内容である。





    世界展開





    [ 日本法人 ]
    日本法人は1983年6月21日にアップルコンピュータジャパン株式会社 (Apple Japan, Inc.) として設立され、その後1997年にアップルコンピュータ株式会社に、さらに2007年3月1日にアップルジャパン株式会社へと改称された。1996年10月までの所在地は東京都渋谷区千駄ヶ谷。代表取締役には、2004年後半より、ライブドア (1999-2002)|ライブドア(旧)の設立者で代表取締役兼最高経営責任者|CEOであった前刀禎明マーケティング担当(米Vice President兼)(2006年7月に退社)と日本オラクルの取締役であった山元賢治セールス担当(米Vice President兼)の2人が就任。2006年8月以降2008年1月現在は山元氏のみが代表取締役となっている。前任は、1!
    997年4月11日に就任した原田泳幸(現、日本マクドナルドホールディングス代表取締役兼CEO)であった。ちなみにこの原田氏は、以前は日本NCRで取締役を務めており、長年のMacユーザでもある。その原田氏がアップルから日本マクドナルドに移籍した事に関し、一部では「Macからマックへ移籍」と話題にもなった。歴代の日本法人社長は、サイバーステップ代表取締役社長の武内重親、日本通信代表取締役社長の三田聖二、日本BEAシステム